みそかにスタジオジブリのアニメーション映画「かぐや姫の物語」をみたので、感想を書いてみようと思い立つ。(大掃除から逃げようとして。)
といっても、その作品からはなんとも非常にいろいろ感銘を受けたので、それを全部書いていると年が明けてしまう。そこで、ひとつに絞って書いてみる。もちろん単なる感想です。
なんでそんなもの書くのだろうか。答えは風にでもふかせておく。
古典の物語にネタばれもへちまもあるものかと思われますが、一応ご注意を。
しょーもないかんじのスノッブが5人、かぐや姫に言い寄る。
その中に一人、相当にソフィスティケイトされた、たちの悪いジゴロがおり、狡猾な物語を使ってかぐや姫の世界へ踏み込んで行く。とても感心できないかたちで。
かぐや姫は、心ではその物語がまがいものであることを感じながらも、まっすぐな人柄もあってか精巧なレトリックに足をとられ、にっちもさっちも行かなくなってしまったようだった。
そのとき自分としてはその物語の狡猾さから、コンピューターがシュミレートする仮想現実が連想された。
あたかも本物のようだが明らかにそうでない。しかし理屈で考えると本物と同じである、と。
しかもその物語の発信元には生きたひとりの人間がいる。
いかに狡猾といえども、そこまでの精巧さを用意するほどの熱意をかぐや姫の人柄は踏みにじる事もままならない、と。(それをわかって仕掛けるジゴロがまたサイアクに手に負えないと思うけれども。)
おまけにかぐや姫は、その一段前(だったかな)で駆け引きに勝ってしまったが為に、ことさらそのあたりの事にナーバスになっている、と。
話は飛んで、コンピューターがシュミレートする仮想現実は、現代人の生活をとても助けてくれる。
その基底部には明らかに二分法的な合理的思考体系があることと思われる。
だとしてもその事自体が白とか黒とかいうことではなく、次のような事を思った。
月というものが近代以前、おそらく人々のこころを映し出す鏡や、たましいの止まり木のような存在として夜空にぽっかり浮かんでいただろうことは想像にかたくない。
しかし、現代人にとっては少なくともそういうファンクション(と、わざと言ってみたり。)に関してみる限りでは、だいぶ難しくなってきていることと思われる。
テクノロジーの力は現実という「世界の一部」を「世界の全体」と見まごうほどの勢力で月面に到達させてしまったし、そもそもこころやたましいといった概念は、人間の非合理性そのもののようなモノであると考えられるもの。
そんなこんなで、このろくでもないジゴロからコンピューターの連想を経由し、映画全体のバックグラウンドにある「月」の姿が透かし見えた様に感じた。
次の展開でかぐや姫は、そのたましいは、まさに本物であるのに、それが客席からははっきりと見て取れるのに、スクリーンの中の彼女は、みずからもまがいものであるように混乱する、と。
観てるこちらは、ちがう ほんものだよ と思うのだが、なんとも気の毒であった。
ひとは普段の「おもて面の自分」を超えてその深い中心に近づこうとする時、奥のほうに持っている根源的な異性をイメージするという。(どうもそれは個々人がいずれかのジェンダーとしてあることの影みたいなモノが密接に関係しているらしい。)そして、その動きはあまりに深い所で行なわれる為、おもてのほうの自分は動向に気づかない、と。
そんな時、ひとはそのイメージを外界にいる、そのイメージに一番近い異性の他人に映し出すという。
そして、そのひとに近づこうとする形で自分の中心への接近を試みるという。(おそらくそれは、誰しもが良く知っている とても強い力で ってことなんだろうなと思うのだけど。)
ヒトのこころはそのような性質を持っているという話を読んだことがある。
かつて月が象徴していたであろう人間のたましいとは、そういうところのものではなかろうか。
そう考えると、あのろくでもないジゴロがやってるようなろくでもないこと、それは他人事であろうか。あれは誰しもの中にあるひとつの人間性の姿ではなかろうか。
しかしながらというか捨丸というキャラクターが真に自然に生きた者であり、かぐや姫に近づこうとなど全くせずして、故にといったら良いか、とにかく、それこそ自然に彼女のたましいとちかしくあったのだなということもあいまって、ううむ、と思う年の瀬でありました。
どっとはらい。
# by aoyamajyuichi | 2014-01-09 19:42